弥生人に感謝する日 [雑談]
実は私の漫画家デビューは30歳と、普通(?)と比べてかなり遅い方である。
漫画家になろうと決意してサラリーマンを辞め、上京したのが25歳。
初持ち込みで某青年週刊誌の月例新人賞の一番下のヤツに引っかかって担当が付き、
アシスタント先も紹介してもらって2~3ヶ月に1度新作を書いて持ち込みを続けるも、
一番下のヤツから抜け出すことはできず…
3年ほど経って最初の担当(♀)が漫画と別の部署に異動になる際、
別の編集者(♂)のところに連れて行かれ、私の担当の引継ぎをお願いしたところ…
「やだよ!めんどくせえ。使えねえんだろどうせこいつ?」
と目の前で言われたことは、一生忘れられない思い出である。
結局、今もお世話になっている「パチスロパニック7」に拾っていただくまで、
5年もの間、猛烈に時間を浪費することになってしまったのである。
しかし、上京して、今月でまる20年。
あの頃のことを思うと、今漫画を描いて暮らせていることが不思議で不思議でならない。
とにかくいろいろな人にお世話になったおかげ、ということだけは確かだ。
本当に感謝の一言に尽きる。
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さて、そんなわけで今回は「感謝」にまつわる話。
20年前の1月に上京後、お盆に初めて実家へ帰省した。
久しぶりの神戸、そして青春を過ごした自分の部屋を満喫するつもりだったのだが、
なんと!
自分の勉強部屋が納戸に変わっていたのである…
…いや。
まあこれはいい。
だって出て行ったんだから、別に部屋をどうしようが親の自由だ。
そう自分を納得させて、積み上がったダンボール箱に囲まれて幾晩かを過ごした。
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翌年の春。
そろそろまた帰省するわ、と親に電話で告げると、
想像もつかないような言葉が返ってきた。
母「あーその頃な、ちょっと引っ越して別の所に住んでるかも」
私「…え?」
母「あれっ、あんたに言うてなかったっけ?改築するんよ、ここ」
私「…」
はああああああああああああっ?
いやいやいやいやいやいやいやいやいや!
なあ~んも聞いとらへんがな!でんがな!まんがな!
よくよく話を聞いてみると、どうやら私が出て行ったのを機に、
兄夫婦を呼び寄せて2世帯住宅にする計画を立てたらしく、
すでに発注も終わっており、古い家はもう取り壊しにかかっているのだという。
私「…もしかして俺が出て行くの待ってたんか?」
母「そ、そんなことないがな!」
どもってるやん…図星やん…
母「まあええから帰っておいで。
近くのアパートかマンション、2ヶ月ぐらい借りる予定やから」
そう言って電話を切られた。
俺の青春の部屋、もうないんか…
今まで生きてきて一番深いため息を、その時ついた。
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94年3月、2度目の帰省。
仮住居は、実家から歩いて5分ぐらいの古いマンションだった。
母「荷物が多いから狭いわ…」
私「まあ2ヶ月の辛抱やろ。我慢しぃや」
母「…それがな。2ヶ月以上かかるかもしれんねん」
私「へ?」
母「実はな、家壊したら…とんでもないもんが出てきたんよ」
私「…まさか…死体とか?」
母「惜しい!」
私「惜しい?惜しいってなんやねん?骨か?墓の跡?」
母「あっ、離れたな~」
私「エエからはよ教えてや!」
母「弥生時代の住居跡が出てきてん」
えええええええええええええええええええええええええええええ!
私「弥生時代の住居って、竪穴式住居ってやつ?マジで?」
母「マジで」
私「えっ!えっ!ちょっと待って!どうするんそれ!」
母「お役所は学術調査したいって言ってる」
私「学術調査?それどのくらいかかるん?」
母「本格的にやったら数年かかるかもとかいってた」
えええええええええええええええええええええええええええええ!
私「いやいやいやいやいやいや!数年って…家建てられへんやん!」
母「そうやろ。困るやろ」
私「どうすんねんな?ここ登呂遺跡みたいに観光地になるんかいな?」
母「調査はな、とりあえず断った」
私「えっ?断った?断れんの?」
母「その代わり、触ったらあかんらしい」
私「…」
ああっ、もうワケわからん!
ちゃんと説明してくれ!
母「また何十年後かに調査できるように、住居跡の上にセメント流し込んで固めて、
その上に家を建ててくださいって。それならOKやねんて」
私「マジか!」
母「マジや」
私「ちょっと俺それ見に行く!」
母「残念!もうコンクリ流し込んだあと」
呆気にとられたまま、春の帰省を終えた。
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そして次に帰ったのは、新居が完成した94年秋だった。
玄関だけが共同の、二階建二世帯住宅。
母「おかえり」
私「立派な邸宅ですなあ」
母「そうやろ。ちゃんとあんたの寝る部屋も作ってあるから」
私「えっ、マジで!」
母「マジで」
…そこは何のことはない、新しい納戸であった。
やりやがったな。
しかし、漫画家デビューもしていない無職同然の自分には、
外資系の医療機器の会社でバリバリ稼いでる兄貴のように、
親と二世帯住宅を建てられるような甲斐性があるはずもなく…
ちょっと申し訳なさを感じながら、数日を過ごしたのである。
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95年1月16日。
その日は夜からアシスタントの仕事があったため、
先生のアトリエのある高田馬場に居た。
仕事時間は、22時から翌朝の7時まで。
5時半過ぎまでは、いつもと変わりない時間が過ぎていた。
そして、5時46分。
いや、東京では5時47分か48分頃だっただろうか。
マンションの5階にあるアトリエが、揺れ始めた。
東京では、震度1~3程度の地震は上京以来しょっちゅう起こっていたので、
先生を含めそこにいた誰もが、さほど気にかけてはいなかった。
一応テレビのニュースをつけてみると、地震速報のテロップが。
「先ほど近畿地方で強い揺れを感じました」
各地の震度が日本地図上に表示されていく。
大阪、震度5。
「震度5?珍しいな」
神戸はどうなっているのかと、そのまま画面を見続ける。
が…いつまでたっても、神戸の震度だけが表示されない。
「オイオイどうなってんねん?」
6時を回ったころに、速報が入ってきた。
「阪神高速道路の高架橋が、
広範囲に渡って倒壊しているとの情報が入ってきています」
この時点で、ただ事じゃない状況が起こっていることは想像がついたが、
全く映像が入ってこないので、どこか実感がない。
先生に断りを入れて、実家に電話をかけさせてもらった。
通じない。というか、コール音さえ鳴らない。
6時半まで電話をかけ続けたが、結局繋がらず。
「森、今日はとりあえず帰ったほうがいいよ。
もしかしたら家に連絡あるかもしれないから家で少し待機しな」
先生にそう言われて、急いでアトリエを出た。
アパートに帰り着いてテレビをつけると、新しい情報がどんどん入ってきていた。
実家に電話をかけ続けた。
50回。100回。
やはり繋がらない。
ここはとりあえず急いで様子を見に帰った方がいいのか。
しかし、電車がどこまで動いているのかもわからない。
ニュースでは、30分ごとに死者・負傷者の数が考えらない勢いで増えていく。
本当に頭が真っ白になっていた。
正直、最悪の事態は覚悟していた。
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神戸の垂水に住む姉から連絡があったのは、夕方の18時近くになってからであった。
とりあえず、姉の家族、兄夫婦、そして両親は無事で近くの高校に避難中で、全員無事とのこと。
姉「心配なんはわかるけど、今は帰ってこなくていいからね」
私「なんんでやねん!なんか手助け…」
姉「きっと来ても、なにもでけへんよ。想像以上に周りひどい状況やから」
私「…」
姉「この公衆電話、まだ他の人待ってるから切るわね。また連絡するわ」
電話が切れた。
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地震の時の詳しい状況については、ここでは割愛させていただく。
私が直接体験したわけではないし、人から伺った話をしても、私には何も伝えられないと思うからだ。
なにとぞ、ご容赦いただきたい。
とりあえず家族には大きな怪我もなく、実家も近所の家が多く倒壊している中、
修理で対応出来る程度の損傷(認定は、半壊)で済んだ。
地震のあと、家を建てた建築会社が調査をしたところ、すごい事実が判明した。
実家が半壊で済んだのは、新築だったからという理由だけでなく、
建築前に見つかった弥生時代の住居跡を保護するために流し込んだコンクリートの上に建てたおかげで、
やや地震の衝撃が吸収されたのではないかというのだ。
母「弥生人に助けられたようなもんやわ。
ほんま、感謝せんと」
震災から今日で18年。
あれから毎年この時間は、仕事の手を止め神戸に向かって手を合わせている。
同時に、家族を守ってくれた弥生人への感謝の気持ちも忘れず。
ありがとう、弥生人。
※あらためて、阪神大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします